● 引退した選手 ●


伊東浩司
▼ 1970年1月29日(短距離) ▼

兵庫県神戸市出身。100メートル走の日本記録保持者。東海大学政治経済学部卒業。現甲南大学助教授。夫人は1997年世界選手権女子マラソン金メダルの(鈴木)博美。

1998年12月13日にバンコクで開かれたアジア大会の100m走において優勝した際に は、準決勝で10秒00を記録した。200m走のベスト記録は熊本市で1998年10月2日に 出した20秒16であり、当時の日本記録となった。シドニーオリンピックでは100m ・200mに出場し、両方とも準決勝7位という成績(100m:10秒39、200m:20秒67) に終わった。また、4x100mリレーでは小島茂之・伊東浩司・末續慎吾・朝原宣治 で走り、38秒66で6位に入った。




高野進
▼ 1961年5月21日(400M) ▼

400メートル走の日本記録保持者で、バルセロナ五輪では日本のスプリント選手と しては64年ぶりの決勝進出を果たし、ファイナリストとなる。東海大学のコーチ である。100メートル走の日本記録、アジア記録保持者である伊東浩司や、200メ ートル走の日本記録、アジア記録保持者である末續慎吾を育て上げた。




中山竹通
▼ 1959年12月20日(マラソン) ▼

長野県北安曇郡池田町出身の陸上長距離選手。 1980年代後半に瀬古利彦や宗茂、宗猛兄弟らと、1990年代前半には谷口浩美、森 下広一らと日本マラソン界をリードした。2時間9分を切るレース4回は最多を誇る 。

地元の県立池田工業高等学校を卒業後、国鉄、富士通長野などに勤務しながら競 技生活をつづけ、1983年に創設メンバーとしてダイエー陸上部 へ。

1984年の福岡国際マラソンで2時間10分00秒で初優勝。 1985年のワールドカップマラソン広島大会で日本最高記録(当時)の2時間8分15 秒で2位(この記録は1986年北京国際マラソンで児玉泰介に破られるまで日本最高 、1997年早田俊幸に破られるまで国内最高)。 1986年にはソウルアジア大会で優勝。 1987年には1万メートルで日本新記録(当 時)となる27分35秒33(この記録は2001年に高岡寿成に破られるまで日本記録) をマークした。同年12月のソウルオリンピック代表選考会、福岡国際マラソンで は雪混じりの雨天の中を20キロ1時間を切り、35キロ地点まで当時の世界記録を49 秒上回るハイペースで飛ばし、2位以下に大差をつける2時間8分18秒で優勝した。 1988年のソウルオリンピック4位、つづく1992年バルセロナオリンピック4位と二 大会連続で入賞を果たす。

バルセロナオリンピック後に一線を退き、後進の指導にあたる。 大阪産業大学、同付属高等学校などの陸上部監督を経て、現在は愛知製鋼陸上部 監督をつとめている。




野口安忠
▼ 1976年8月11日 (砲丸投げ) ▼

福岡県出身、現日本記録保持者。

日本大学4年当時に福岡県選手権で樹立したその記録は18m53cm。 九州共立大学付属八幡西高等学校在籍当時に、高校生日本3位記録の18m71cmの記 録を出す。

卒業後、コニカに就職。そして2002年、福岡・大宰府の九州情報大学に移籍。だ が、同2002年は肘の故障のため休養。 そして、2004年11月3日、福岡県北九州市の鞘ヶ谷陸上競技場で行われた 西日本 カーニバルで肘の故障とコーチングへの専念を理由に引退。 そのときの優勝記録 は17m40cm。 九州・福岡を拠点に若い学生競技者を育てることに力を注いでいる。




森下広一
▼ 1967年9月5日(マラソン) ▼

初マラソンは、1991年の別府大分毎日マラソン。初マラソンながら、急遽、出場 した当時の日本最高記録保持者である中山竹通との一騎打ちを演じた。このレー スで、中山は39キロ過ぎに森下の肩を叩き、スパートを促した。期待の新星であ った森下に、勝負どころを教えるためで、後に語り継がれる名場面であった。言 われるまま森下はそのまま飛び出してゴール。2時間8分53秒の初マラソン日本最 高記録で優勝した。

翌年の東京国際マラソンで、再び、中山と一騎打ちになり、これを制し、バルセ ロナ五輪のマラソン代表となった。 五輪のマラソンレースでは、チームメイトの 谷口浩美や前述の中山とともに出場。 大韓民国の黄永祚とマッチレースを繰り広 げ、銀メダルを獲得した。

トラックでは1990年の北京アジア大会10000mで優勝、5000mは銀メダル。翌1991年 、世界選手権東京大会で10000m 決勝進出。 その後、故障に苦しみ現役を引退。1999年、福岡・宮田町のトヨタ自動車九州陸 上部監督に就任。 チームは着実に力をつけ、全日本実業団駅伝への出場、クロス カントリーやハーフマラソンの世界大会代表を輩出する。

2005年には北海道・深川にて10000mの日本歴代3位・国内日本人最高タイムを記録 した三津谷祐をヘルシンキ世界選手権代表へ。これがチーム初のトラック種目代 表である。 また、深川のレースで三津谷をアシストしたルーキー、サムエル・ワ ンジルはゴールデンリーグと呼ばれる国際主要大会の10000mで世界ランク上位に 相当する26分41秒75をマーク。約2週間後に行われた9月のロッテルダムのレース ではハーフマラソンの世界記録(59分16秒)を樹立。




吉岡隆徳
▼ 1909年6月20日 - 1984年5月5日(短距離) ▼

19島根県簸川郡斐川町に生まれ、1932年(昭和7年)8月、第10回ロサンゼルス五 輪で、東洋人初の100メートル走6位入賞を果たした。以降、日本人のオリンピッ クの100m走での決勝進出者は1992年のバルセロナオリンピックでの伊東浩司まで 現れなかった。このロサンゼルス五輪の100メートル走で金メダルをとり、「深夜 の超特急」と呼ばれたエディ・トーラン選手にちなんでスポーツライターの川本 信正がつけた「暁の超特急」という呼び名は有名である。

1935年には10秒3の世界タイ記録(他にラルフ・メトカルフェらを含む4人が記録 )を達成。100m走での世界記録保持者となったのは日本人およびアジア全体でも 吉岡だけである。

その後、東京五輪で活躍する飯島秀雄などを育てる。




人見絹江


岡山出身。アムステルダムオリンピックでは、もともとメダル獲得を期待されていたの は100mと走幅跳でした。(当時100、400、幅跳びで世界記録を持っていた )残念ながら100mでは準決勝で敗退、走幅跳は棄権でした。そんななか急遽エン トリーしたのが初挑戦の800mで銀メダル。 獲得。その後24歳で亡くなる。




飯島秀雄
▼ (短距離) ▼

茨城県出身。 東京五輪で100メートル準決勝進出。 その後プロ野球ロッテに入団。代走専門選手として3年で117試合に出場した。 盗塁の成功は23、失敗は17。 引退後、自殺する。




有森裕子
▼ 1966年12月17日 (マラソン) ▼

岡山県岡山市出身。日本体育大学卒業。リクルートの陸上部に所属し、小出義雄 の指導を受けた。

日本体育大まではまったく無名の選手。マラソン以外では目だった成績はない。 1992年のバルセロナオリンピックで銀メダル、1996年のアトランタオリンピック で銅メダルを獲得した。現役引退後は、NPO ハート・オブ・ゴールドや国連人口 基金親善大使などで幅広く活躍している。




谷口浩美
▼ 1966年12月17日 (マラソン) ▼

宮崎県南那珂郡南郷町出身、小林高校 - 日本体育大学 - 旭化成。自己最高は2時 間7分40秒。

小林高校時代には1977年・1978年と高校駅伝で連覇、日体大時代には箱根駅伝(57 回〜59回)で山下りのスペシャリスト(6区)として3年連続で区間賞を獲得。 旭化成に入社後も1987年東京国際マラソン優勝、1991年の世界陸上金メダルをは じめとする数々の輝かしい成績を残す。 1992年のバルセロナオリンピックでは給水時に転倒しながらも8位に入賞したが、 その時の本人のコメント「こけちゃいました」は有名。1996年のアトランタオリ ンピックにも出場した。

1997年旭化成陸上競技部コーチ、1999年同ヘッドコーチを経て、2001年沖電気陸 上競技部に移り助監督、2002年同監督に就任した。




瀬古利彦
▼ 1956年7月15日 (マラソン) ▼

三重県生まれの陸上競技、マラソン選手。1970年代後半から1980年代にかけて宗 茂、宗猛、中山竹通らとともに日本長距離界をリードした。

四日市工業高校を卒業後、一浪ののち早稲田大学に進学。箱根駅伝では4年間「華 の2区」を走り3年次、4年次で区間新を記録した。早稲田大学競走部の中村清監督 の勧めもあり大学時代からフルマラソンに挑戦。大学3年の1978年に福岡国際マラ ソンで初優勝を果たし、1979年、1980年と同マラソン3連覇を達成。1980年にはモ スクワオリンピックの代表に選出されたがソ連のアフガニスタン侵攻による西側 諸国のボイコットで出場はならなかった。大学卒業後の1980年、中村監督ととも にヱスビー食品に入社。1984年にロサンゼルスオリンピック(14位)、1988年に はソウルオリンピック(9位)に出場した。

また、1981年3月22日には25,000m(1時間13分55秒8)と30,000m(1時間29分18秒8 )の世界記録も達成。この記録は2005年現在いまだ破られていない。 1988年に現役を引退し、ヱスビー食品陸上部の監督に就任した。2005年3月より日 本陸連役員もつとめる。また現在でも駅伝やマラソンでは解説を務めることもあ るが、放送禁止用語を思わず口走ってしまったり、あまりの独走に「見てるほう はあくびが出ちゃいましたけどね」と発言したり、お世辞にも上手とはいえない (むしろゲストとしての発言ならまだいいが、という意見もある)。

2005年の東京国際女子マラソンで優勝した高橋尚子が事前に怪我をしていること を公表したことについて苦言を呈した。




円谷幸吉
▼ 1940年(昭和15年)5月13日 - 1968年(昭和43年)1月9日 (マラソン) ▼

福島県岩瀬郡須賀川町(現在の須賀川市)出身。陸上自衛官。

福島県立須賀川高等学校卒業後、1959年陸上自衛隊へ入隊。腰椎のカリエスを持 病として抱えていたが自衛隊の教官に見出され自衛隊体育学校に入学する。

1964年の東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得。(トラックまで2位であ ったが父の「男は後ろを振り蹴るな」という言葉を忠実に守ったため後ろに選手 がいることに気づいてなかった)次の夏季オリンピックであるメキシコシティオ リンピックでの活躍が期待されていたが、その重圧を苦にして、1968年1月9日に カミソリで左頚動脈を切って自殺。

出身地須賀川市では、業績を偲んで毎年「円谷幸吉メモリアルマラソン」が開催 されている。



日本陸上競技資料館